認知症介護・予防講演・研修|認知症は恐くない

第1回お話し4・自己決定権の尊重と痴呆介護

  • 自立に向けた介護こそ大事です
  • 自立から自律への発想の転換を図る

今回は、世間一般にいう「認知症介護」から視点を変えて考えていこうと思います。本の中から抜き出した文章をあげますが、色々問題があって、それについて説明します。

問題の所在

  1. 認知症介護を受ける立場から
    介護をする視点・される視点の違いの一例
    介護する人からの視点を、介護される側から見るとどう映るんでしょう?これは、アメリカの本を翻訳した物です。

    「見覚えのない人が部屋に入ってきて、彼女をベッドから追い出し、彼女の服を脱がしはじめる。これらがすべて彼女の言葉による、そしてしばしば身をもっての抗議に反して行なわれる。 彼女の助けを求める要求は無視される。

    彼女がかろうじて陰部を覆う薄いシーツ以外は寒いのに裸の状態で、正に公共の廊下を移動させられるとき、他の人たちは彼女の訴えを無視する。彼女の助けを求める言葉による叫びは気軽な微笑みか無視によって迎えられる。

    彼女は寒く、見慣れない部屋に入り、シーツを取り除かれ、再び彼女の願望や抵抗に反して、この見知らぬ人物が彼女の陰部を触る間しばしば冷たすぎるか熱すぎるシャワーをかけられるのである。

    他のいかなる状況下でもその行動は襲撃であると思われるであろう。混乱しているがその反応として、言葉で、そして肉体的に攻撃的になることは驚きでない。」
    (個人に合わせた痴呆の介護、J・レイダー他編 日本評論社 P.14より)

    彼女とは介護されている人ですね。この人は老人ホームに入っているんでしょう。服を脱がせるのは「介護職員」ですね。そして「身をもっての抗議」が介護に抵抗するということ、そして、公共の廊下とは、老人ホームの廊下ですね。

    「なにすんのよ!」という彼女の訴えをそのまま見ているのが「訴えを無視する」ですね、お風呂に入れる前の事です。

    入浴介助が、介護を受けている立場から見ると「私がいわれもない暴力を受けているのに、皆知らん顔をしている」ということになる。「見慣れない部屋」とは、施設の浴室ですね。

    本人は認知症になっているから、そこがお風呂だと認識できないんです。そしてまた、「攻撃的になる」とは、暴れているんですね、、、彼女が。

    認知症の人から見ると、そういうふうに、見えるんじゃないのか、、、ということです。

    どうしてこういうことが起こるかというと、認知症になった人は、私達が見えるものとは違うように見えるんじゃないか、と言われてるんです。僕達が青いと思っているものが、認知症の人たちには赤く見えているのかもしれない。

    介護をされる側の世界観を理解
    認知障害・記憶障害によって、自分が何処にいるのかわからない。どうして風呂に入るのか解らない。認知症の人が「水におぼれた」ことがあって、その「時」に帰っているとき、風呂に入れれば怖がりますよね。その人がどういう世界に居るのか、周りが理解できない。だからこういうことが起こるんです。


  2. 認知症介護をする立場から
    ①在宅では

    家で、その人の世界が理解されないと、家族から「奇妙な行動」と見られる。普通の人ではしない行動や、理解できない行動を取るからです。

    私が実際にケアマネをしているケースですが、突然、家具を移動し始める。家の人はそれを制止する。でも、なぜその人がそんな事をし始めるのか理解できないから「奇妙な行動」になってしまう。問題行動ですね。

    だから、制止したり、させないよう強制したり、怒鳴りつけたりするんです。でも、我々がその行動を理解できないと同時に、認知症の人もなぜ制止するのか、我々の行動が理解できないんです。我々とは常識が違うんです。でも、そうなったのはその人の責任じゃないですよね。そこのところを家族は理解してあげないといけないんです。

    ②施設では
    施設では、問題行動を「ラベルング」するんですね。 決り文句でその人を「困ったもんだ」と決め付けてしまうんです。これは差別ですね。そしてどうするかと言えば、対症療法をするんです。原因を無視して、症状だけに対応するんです。

    徘徊するからカギをかける。夜寝ないから睡眠薬を飲ませる。問題行動はなくなりますが、その人は変わってませんから、カギをはずせば外に出るし、薬を止めれば夜騒ぐんです。どうしてそうなるんでしょうね。


  3. パターナリズムからの脱却を
    パターナリズムとは 他者が慈愛あふれる父のごとくに、あなたのためを思って行動すること なんですね。

    そして辞書を引くと 父権主義、温情主義と訳される

    例えば認知症の人が入浴できない。だから入れてあげましょう、、、というのがパターナリズムなんですが、それが進むと認知症で骨粗しょう症の人は、「転ぶと危ないから」と、車椅子に乗せる。認知症の人はどうして車椅子に乗せられたか理解できない為、立ち上がろうとするんですね。施設では危ないのでと、ベルトで縛るんです。最悪ですね!

    そして、しばるベルトを「安全ベルト」と言うんです。マジックテープになっているんですが、後ろで留める為に利用者はかってに外せないんです。もっと恐ろしいのは、相撲のまわしのような「3点式ずれ落ち防止ベルト」ですね。身動きできませんよ。私は施設でそれら全てを外させました。

    よく施設では、強制的に入浴させます。そこには「清潔にしていれば気持ちいいはずだ」という介護する側の発想があるんです。昔、どれだけ入浴せずに居れるか試した事があるんですが、一ヶ月入浴しなくても問題ありませんでした。「気持ちいいはずだ」「転倒すると危ないから」というお仕着せの発想が利用者を苦しめるんですね。

    何がその人にとって良いかがその人自身から出てこないと「パターナリズム」に陥ってしまうんです。学校がいい例ですね。生徒の為と言って、校則でしばる、、、介護される側にとってはいい迷惑なんです。

 

痴呆の問題行動とは

  1. 問題行動の原因
    中核症状は一次要因で脳の器質的問題ですね、是はお医者さんの領域です。対して周辺症状はケアの領域なんですね。対症療法でその人を押さえ込んでいけば、問題はどんどん大きくなるんです。ケアの仕方によって変わってくるんです。上手にすれば問題はちいさくなる。

    ①間違った対応
    我々の常識を押し付けると、利用者さんは環境を敵視してくる。問題行動が大きくなるんです。その人のニーズはなにか?生活する上で障害になることが何か、生活課題(=ニーズ)ですね、それを見ないといけない。

    うちのデイサービスでは、「本人が入浴したがらなければ、無理にいれるな」と職員に言っています。だってそうでしょう?わけ解らんうちに此処へ来る事になって、朝の10時から風呂に入るなんて、そんな習慣はなかったわけですから。

    認知症介護・予防講演・研修|対応の仕方で広がる問題行動
    ②不適応状態から適応状態へ

    朝から風呂に入れなんて、痴呆の人から見ると我々職員の方に問題行動があるんです。だから、本当は夜10時までデイサービスをやって、夕食を食べてからお風呂に入りなさいとするべきなんでしょうね。そうすれば皆、お風呂に入るかもしれませんね。

 

 

自立から自律へ発想の転換を図る

  1. 自立・・・他の援助や支配を受けず自分の力で身を立てること。
    自立の援助は、食事・入浴・排泄など一時的な要求に焦点が当てられてきた

    介護の世界では「自立」と言う言葉を使うんです。一時的、生理的欲求ですね、、、食事、入浴、排泄です。今の介護はこれが仕事だと思っているんです。そこで、もう一つの自律があるんです。
  2. 自律・・・自分で自分の行為を規制すること。外部からの抑制から脱して、自分の立てた規範に従って行動すること。

    自律の援助は、自分の生き方は自分で決めたいが、決められないことに焦点を合わせる。

    自分で、自分の生活規範を作っていく事が「自律」ですね。中学生ぐらいで出来てきます。ドイツなんかでは、12歳ぐらいで進路を決めてしまう。あとで変更は出来ないんです。日本の子供より自律してますね、、、彼らは。
  3. 認知症の方は、自律援助が大切
    自分の生き方を自分で決められないのが認知症なんです。 皆さんは自律的な生き方をしていますよね。 何を食べ、何を買うか、自分の行動基準に従って決めているでしょう。 認知症の人にはそれが出来ないんです。

    ①認知障害、記憶障害、言語障害など様々な障害のため自律できない
    例えば、認知症の人がお風呂に入ろうとします。 先ず、服が脱げないんですね、そして身体も洗えない。 道具を使ってきた手続きを、記憶障害のために忘れるんです。 でも、石鹸を使って洗う事は出来ないが、お湯に浸かって「気持ちいい」と感じる事は出来るんです。 ところが、お風呂から上がると服が着れない。

    自分の生き方を決めるという過程の中で、いろんな事が出来なくなってきている、だから援助が必要なんです。

    パターナリスティックに「この人にはこれが必要だ」と、決め付けた援助ではなく、「この人は何がしたいのか」を考えた援助が要るんです。

    ②障害を周囲が理解してくれないため、混乱が増幅する
    言語障害についても、一般の人はしゃべれないだけかと思うんですね。 でも違うんです。

    人が喋り掛けても、聞こえているにもかかわらず、意味が理解できないんです。だから、話のつじつまが合わなくなってくる、それでおかしいとなる。 また、反対に自分の思った事を言葉で表出できなくなる。だから回りに理解してもらえず、混乱を起こすんです。

    ③援助する側もされる側もフラストレーションがたまる
    貸してもいない人に「一万円返してよ」と(勘違いをして)要求する。相手は借りた覚えが無いから「借りてないわよ」という、普通の人は「ああ、他の人に貸したんだったわ」と訂正できるんですが、認知症の人にとっては、それ(貸したと思い込んでいる事))が全てなので理屈で修正しても解らないんです。

    日常の小さな事が全てそんなあんばいですので、家族なんかとお互いにフラストレーションがたまる。すると家族の中で孤立してしまう、介護の放棄ですね、、、それは。 そうなってしまった人の為には、新しい家族関係を築かなくてはいけない、、、それが「北さん家」なんです。そして毎日の生活で、フラストレーションを貯めないようにしていくんです。

 

幸福追求と自己決定権

日本国憲法第13条 幸福追求権

よく「認知症の人はわからないから、どうでも良いじゃないか」と言われますが、日本国憲法第13条で「幸福追求権」が保証されているんですね。じゃあ「幸福追求権」とは何でしょう? そして、具体的な権利とは?

19世紀のアメリカでは、「幸福の追求は神によって与えられた物だから、何者もそれを犯してはならない」と言われていました。それらの思想を日本国憲法は受け継いでいるんです。

1960年ごろアメリカでは「幸福追求」が議論されました。そしてそれはプライバシーを守る事に行き着いたのです。日本ではベルリンの壁が崩壊した1990年ごろですね、、、言われだしたのは。

その幸福追求権に出てくるのが、「自己決定権」なんです。

国とか地方公共団体などが、この権利を侵したら「ストップ!!」と叫ぶ事が出来るんですが、それを個人のレベルにして考えてみると、自分の事は自分で決めるのが幸せだというカントの人格的自律、、、になるんですね。

  1. 自己決定権とは・・・一定の私的な事柄について、公権力の干渉を受けることなく自ら決定する権利
    では、自己決定権とはどんな物なのでしょうか?
  2. これまでの憲法上の議論は
    以下のことは「自己決定権」ですから、本人の承諾無しには出来ない事ですね。

    ①自己の生命・身体の処分に関わること・・・治療拒否・尊厳死・臓器移植など
    ②産む産まない自由・・・避妊、堕胎など
    ③家族の形成・維持に関わること・・・結婚・離婚など
    ④ライフスタイルに関わること・・・服装・髪型・喫煙・飲酒・登山・性的自由など

    この中でのライフスタイルが今日、問題になってます。

    たとえば、転校生が転校先の校則で「髪型や服装を直さないと退学だ!」と言われて裁判になったりします。裁判所は転校生の言い分を支持したのです。しかし、オートバイを禁止している学校で同じような事が起こりましたが、裁判所は支持しませんでした。法的にも揺れ動いてるんですね、今後いろんな意見が出てくるでしょう。

    何で登山が出てくるのかと言うと、冬山立ち入り禁止!とかなって俺は今登りたいんだ、、、と、なるからです。

  3. 自己決定権と管理社会・・・「ほっといてくれ」「干渉しないで」「私の勝手でしょ」・・・
    朝起きて、ご飯を食べなさいと言われる、、、これは管理されているんですね。痴呆の人も同じです。あれをしなさい、是をしなさいは、「余計なお世話」なんですね。そして他律的な生き方をしていると、そのタガが外れたとき、人は呆けるんですね。

    だから「北さん家」では管理しないんです。痴呆の人を施設に連れてきて、「今日はこれをしましょう」とやるのが一般的なやり方ですが、うちはまず「今日は何をします?」、、、なんです。もちろん認知症の人に限らず一般の利用者さんも同じです。 管理された職員によって利用者さんを管理する、、、なんてしないんです。

 

 

おわりに

  1. 認知症であっても人間らしくとは・・・自己実現できない自己
    よくグループホームで言われるんですが「痴呆の人も人間らしく」なんて、私は言わないんです。だって、この言い方は、認知症の人は人間扱いされていないと言う前提があるでしょ。おかしいですよね。

    認知症の人は自己実現できない世界で迷ってるんです。自己実現したくても出来ない。何をして良いか解らない。

    自己実現とは、自分が持っている欲求を満たす、満足する、落ち着く、なんです。自分がしたいことが出来ないとイライラするんです。 朝起きて何かしなくてはと思い、外に出る。でも出してもらえない。これを何とかしないといけないんですね。

    認知症の人に自己実現させてあげるのが認知症介護の原点なんです。

  2. 自律の哲学的基礎・・・自律の尊重が基本的な道徳原理である
    これは難しくなるので簡単に言います。

    「人間は人格である」
    とカントは言ってるんですね。じゃあ人格とは何か、、、自分の行動規範を自分で作る事なんです。他人から干渉を受けない、他人には「神」も入るんですね。
  3. ケアの個別化・認知症の受容・介護者の非審判的態度の重要性
    個別化
    個別化についてですが、この言葉自体は福祉の人間なら誰でも知っているんです。バイステックの七原則にもありますが、人間は一人一人違うんです。認知症の人も違う、、、にもかかわらず、「問題行動」として、ひとからげにくくってしまう。

    何が出来ないで苦しんでいるのか、何が出来るのか、にあわせるのが個別化です。


    受容
    次に受容についてですが、その人をありのまま受け入れるのが受容です。「嫁が私の財布を取った」と言われる問題は、多くの教科書に載っています。そこで「すいません」と言ってみる。取ってないけど、言ってみるんです。取ったと言う確信に「すいません」と言って許してくれるか、をやってみる。

    非審判的態度
    最後が、非審判的態度。私達は人を評価するのに、なれています。得意と言ってもいい。「あの人はこんな人だ」「うちのお父さんは、こんな人なの」と、よく言いますよね。でも、自己実現できず、闇の中をさまよっている人を評価しても、何の意味も無いんです。

    評価する事でその人を抑制すると認知症は悪化します。評価してはいけないんですね。

    個別化をしやすい北さんちの施設

    うちではバリアフリーですが、エレベーターもあるし階段もある。食事も自分で作っても良いし、職員が作ってもいい。お風呂も入りたいときに入れます。病気になればお医者さんも駆けつけてくれます。でも自宅で介護している家族では個別化がしにくいんです。夫婦ならまだしも、親子・嫁姑関係になるとなかなか出来ないんです。

    人それぞれの「相手に合わせる」合わせ方
    「相手に合わせる」のが基本中の基本です。でも、人によっては言い聞かせれば聞く、という場合もあるんです。外へ出る認知症の人でも、立ち上がったとき「行ってはいけません」ではなく「もう少しで料理ができるから、待っててね」というと「あ、そうか」と待ってる場合もあるんです。だから必ずしも相手に合わせるだけじゃないんです。また言語障害では、解り易い短い言葉で話すと良い結果が出るんです。

    不安を与えない笑顔が大切
    やさしさも大切ですね。鏡を見て笑う練習を真面目にしたりするんです。相手に対して常に笑顔で接する事が出来れば、介護のプロになれますね。私は認知症の人が起こす行為は、不安要因に起因するのじゃないかと思うんです。失敗すると自尊心が傷つけられる、それを出す事が不安なんです。だから、笑顔が要るんです。

    介護者の忍耐について
    忍耐も大切な要素です。忍耐が出来ないと介護は出来ません。忍耐が無い人は、早めに他の社会資源を利用しましょう。

    痴呆を理解する家族と自宅が一番幸せ
    人はやっぱり自宅が一番なんです。だから「上手に老いる」必要があるんです。施設に入るのは幸せとは言えないんです。ある老人福祉施設にお邪魔したとき「うちの入所者は幸せだと言ってます」とそこの職員から聞いたんですが、そこしか生きる場所が無い人たちは「こんな良いところに入れて、幸せです」と媚を売る物なんです。それが自然な姿ですから。

    施設に入る前と施設から自宅に戻るときにとった写真を比べてみると、明らかに違うんですね。
    施設に入るのが「介護」だと思う人が多いんですが、痴呆を理解してくれる家族に囲まれて老いるのが、一番幸せなんです。

ケースワークの7原則

バイステックの七原則(ケースワークの7原則)
  1. 個別化
  2. 意図的な感情表現
  3. 統制された情緒的関与
  4. 受容
  5. 非審判的態度
  6. クライエントの自己決定7.秘密保持